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院長ブログ

村上義之 医師 自己紹介

2021年05月21日

皆さんに、私(村上義之)の自己紹介をしておきます。
私は、昭和39年(1964年)8月28日(乙女座)に四国の愛媛県今治市で生まれました。
小さい頃は田舎(同じ今治市内ではありますが、もう少し山里近く)で祖父母に預けられて夜になると両親が迎えに来ていました。祖父母の家にはニワトリやチャボの小屋があって、朝に産みたての卵を取りに行ったりしていた記憶があります。
幼稚園は近所の精華幼稚園(これが当院の精華会の名称の起源です)。その後、地元の公立の小学校、中学校を経て今治西高等学校に進学しました。
小学校で海洋少年団に所属してトランペットやカッター(ボート)を少し経験したことがあったためでしょうが、中学校ではブラスバンド部に入ってホルンを担当していました。高校ではがらりと変わってボート部に所属していました。このボート競技は心底きつかったのを今でも強烈に覚えています。ゴールした後の手足がぱんぱんに張った状態を今でも思い出します。

同僚の部員とボートで海を渡ろうとして海上保安庁の巡視船に捕まり、翌日皆で校長先生に呼び出されてお叱りを受けたのも楽しい思い出です。 
佐賀医科大学に入学後は一転してラグビー部に所属していました。最後まで一緒だった二人の同級生とは今でも年に1回くらいのペースで、九州、東京、北海道と場所を変えてでも会っています。大学時代6年間を授業、部活、夜の集まり、週末の遊び、夏の合宿や大会への遠征などで家族よりもはるかに長い時間を一緒に過ごした親友です。またラグビー部で一緒だった先輩や後輩との関係性は強くて、今でも時々当院にも来てくれています。因みに、私はラグビー部以外の大学の同窓会には一度も出たことがありません。高校の同窓会?は同級生が耳鼻科の教授に就任した時に医師になったもの有志の食事会が一度開催されて出席したくらいです。
医局は九州大学皮膚科に入局し、当時の教授は東京大学皮膚科から赴任した堀 義昭先生でした。形成外科診療班に所属し、大学病院での2年の研修医、1年の医員として勤務後に大学院へ。免疫学教室(野本亀久男教授)のもとで移植免疫などの勉強をさせてもらいました。その後、佐賀県立病院皮膚科へ部長心得として3年勤務しましたが、この時期が一番いろいろな経験を積めた時期でした。血液内科の先生にならってATLの化学療法、血管外科の先生にならった下肢静脈瘤の硬化療法などなど他科の先生方との隔たりがなくて働きやすかったし勉強にもなりました。病理カンファレンス、内科の膠原病カンファレンスなど自由参加でした。

その後、九州大学皮膚科に新たに東大から後任の古江増隆教授の赴任が決まり、九大皮膚科に助手として戻り病棟医長、講師として医局長を経験させてもらいました。どうやって物事を進めてゆくかなど新任教授の下で得難い経験をさせてもらったと思っています。
自分の能力に見切りをつけて、厚生年金病院に部長として出向させてもらいました。しかしながら病院自体の組織には何ら問題なかったのですが、周囲の一部の先生方との関係性構築などに嫌気がさして、数年後(40歳を目安)に独立することを決めたのもこの時期です。1年で辞して(この時、大学の籍も抜きました)、東京にふらりと出てきて大学の同級生のクリニックで2年間の美容医療に携わることになりました。
それまでの皮膚科の保険診療の範囲においても、治療によって痒みなどの悩みが軽減し、皮膚悪性腫瘍の方が外科的治療によって治癒した際に、人は明るく元気になれることは十分にわかっていたつもりでした。
しかしながら美容医療に携わるようになって、埋没法で二重になる、目立つシミが目立たなくなる、法令線が目立たなくなるなどの場合によっては他人からは些細な外見の変化に過ぎないと思われるようなことであっても、本人からすると非常に大きな関心事であり、それらの解決によって、人はこんなにも元気に明るくなれるのだということを体験したことから、「美容」に興味を持つと共にやりがいを感じました。

私には大したことは出来ないけれど、美容医療の入り口を地域の人に提供することは出来るのではないか、むしろこの皮膚科での美容医療の提供こそが、私が開業するに当たっての他の皮膚科と異なる特徴になるのではないかと考えて、最初は福岡での開業地を探していましたが、残念ながら良き縁には恵まれず、結果として医事新報の後ろに掲載されていたクリニックモール入居者募集を見て、今の北千住院の場所での落下傘開業が決まりました。トレードマークにもなっている2匹のワンコについても触れておきたいと思います。犬種は2匹ともにフレンチブルドッグ。
1匹目のブリンドル(黒でお腹や手足の先が白)は牡で「プルースト」。名前は「失われた時と求めて」の作者であるマルセル・プルーストからとられています。この子は由緒正しい血統書付きで知人の伝手で個人のブリーダーから分けて頂きました。数匹の子犬の中では、“我は行く”を体現したような孤高を感じさせる所作に惹かれました。成長するに従い、典型的なフレンチブルドッグよりはボストンテリアを大きくしたような体がほっそり、手足が比較的長いハンサムボーイになりました。トレーナーに預けていたときにJDAというモデル犬事務所の社長の目にとまり、モデル犬としても活躍してくれました。ドッグフードのパッケージ、阿部寛など数名の有名俳優とも一緒に紙面を飾りました。生涯で彼は数十万円を自分で稼ぎ出しました。
よく出来た子、という印象が強いです。私がサガンを叱る際には間に入ってきちんと座って私を見据えて吠えながら抗議をし、2匹がじゃれあっている時も彼は決して本噛みをしないで寸止めをしていましたが、一方のサガンにはそれが出来なくて彼の鼻先が血だらけになることも多々ありました。残念ながら3年前に脳腫瘍で放射線治療を開始直前で亡くなりました。深大寺に納骨し、一部は山中湖に散骨させてもらいました。山中湖は彼との思い出の場所でもあります。
もう1匹の白い子は雌で「サガン」と言います。名前はフランスの作家である、フランソワーズ・サガンから来ています。この子はプルーストが我家に来て数年後に迎え入れました。ネットで見ていて、たまたま埼玉のペットショップで売れ残り、饑餓児のように手足からだは痩せているのにお腹はぽっこり、斜視もあって可哀想になり思わず引き取ってしまいました。彼女は躾がなっておらず、我儘に振舞います。小型のフレンチブルドッグだったのですが、いつの間にか中年太り(もうすぐ12歳なので、十分老犬です)して体格のよかったプルーストの体重をオーバーしそうな状況です。我家では、最近は名前ではなくて「おばさん、おばちゃん」と呼んでます。活動量はかなり減ってしまい、それがますます太る原因にもなっているようです。今の季節はこたつの中で寝そべっている時間が長くなっています。この子には最後まで元気で寿命を全うしてもらいたいと願っています。
私の実家では、とにかく父親がペット好きでした。小さい頃は必ず犬はいました。芝犬のジョン、チビ、秋田犬のマグ。加えて十姉妹(じゅうしまつ)や文鳥を自分で鳥小屋を作って繁殖させたりもしていました。亀、鯉などもいました。最後は私が学生時代に隠れて飼育していた猫(ジル:ブリジッド・バルドー出演映画「私生活」での役名から拝借)を就職時に引き取ってもらいました。このペット好きの父の影響を私は色濃く引き継いでいるのでしょうね。 私が医師と接した記憶は、愛媛の実家の近所(100メートル少々)にあった黒木内科の黒木先生です。雰囲気は映画「三丁目の夕日」に出てくる三浦友和演じる医師にも似たものがあり、痛い注射をされた記憶や、小学生時に一人で受診すると「来たな、少年!」などと大げさに迎えて緊張を取ってくれていたのを今でも覚えています。他の綜合病院などでは決して経験しなかった対応でもあり、私の子供の頃の記憶では、こうしたざっくばらんな対応で持てなしてくれたのは開業医の中でも黒木先生だけだったように思います。この体験があったからこそ、「良き隣人のような関係」が私の思い描く医師と患者さんとの接し方の理想になっているように思うのです。
1989年に医師となって、九州大学皮膚科での初期外来研修を追えて初の病棟勤務となったオリエンテーション初日に、当時の病棟医長であったA先生から言われた言葉を今でも覚えています。
「ようこそ病棟へ。最初に言っておくが、君たちはこの病院に勤務する人の中で最下層にいます。患者さんはもとより、看護婦さん(当時は看護師さんより一般的でした)、助手さんなど全員が君たちの先輩であり、上司でもあることを忘れないように。」
そして、「大学病院では皮膚科においても病気で亡くなられる方がおられるのは皆さんがご存じの通りです。その際に君たちは医者として何も出来なくても、人としてしにゆく人に真剣に対峙することは出来るはずですし、しなければいけません(確か、後半の実際の言葉は、「抱いて寝ることくらいは出来る」というような表現だったと記憶しています)。
 今でも日常診療にて日々の業務に忙殺されて、いつの間にか自分の心に通常業務というような感覚が出てきたときに、どこからともなくふっと心の底からこうした言葉がA先生のヒゲをたくわえた顔とともに浮かび上がってきます。「初心忘るべからず」ですね。
話はかわりますが、皆さんにはお気に入りのスーパーがありますか? 私は「オオゼキ」が好きです。私が現在住んでいる町の近所にももちろんいくつかのスーパーのチェーン店のみならず、少し高級なクイーンズ伊勢丹や成城石井、紀伊國屋、明治屋なども数駅先にはありますが、私は断然「オオゼキ」派なのです。距離的には少し離れていますので、連日通ったりなどはもちろん出来ません。でも時に一人で電車に乗ったり、自転車や車で出向いてしまうくらい他の店舗にはない魅力が私には感じられるのです。
今までは無意識だったので、少しその理由を私なりに考えてみました。

1.品揃えがよい

肉も魚も野菜もフルーツも日配品も種類が豊富です。最高級品とまではいかなくても、私の日常生活においては必要十分以上の品揃えがなされています。ほぼ毎回目的は達せられています。

2.日配品が比較的安価

牛乳、チーズ、バター、お酒など、どこで買っても品質に差がないであろうメーカー品などが決して最安値ではないかも知れませんが、平均して安価な値付けであり、明らかに高いなと感じることがありません。そのため、お値段の相場をしらない商品についても安心して購入できているように思います。

3.雑多な雰囲気

こればかりは好みとしかいいような無いのかも知れませんが、私は大好きです。こうした雰囲気なのも品揃えがよいからに他ならないと納得出来ているのです。品揃えが悪いにも関わらず雑多であるのとは異なります。

「来てくださった患者様に満足を!」:簡素ではありますが的確で迅速なサービス(診断や施術)かつリーズナブルな料金(自費診療)、…などをモットーに、今後も皆様の美容と皮膚の健康の一助となるべく努力してゆく所存です。
上記の開院当初に掲げた経営理念は今でも変わりはありません。
さらに、当院が私にとっての「町のスーパーマケット オオゼキ」のような、皆様に安心して通って頂ける「あなたの町の皮膚科・美容皮膚科」としてのミルディス皮フ科を目指して行きたいと思っています。